あるいはiで一杯の文

前日か当日に観たり・聴いたり・読んだりしたものについて書いていこうと思います。この文を読んだ方が、それらに触れたくなってもらえたら幸いです。

地獄とはイデアの不在なり

  ―そうなんだよ、あんまり有頂天になって生きてもらっては困るのだよ、世間にはおまえたちが忘れてしまったものがいっぱいあって、いつでもおまえたちの寝首をかこうとしているのだからな。―
 この映画を観ていたとき、中上健次の小説「十九歳の地図」に書かれたこの一節を思い出した。ご存じの方も多いと思うが、この小説は新聞配達の仕事をしながら、自前の地図に×印を付け、その家に脅迫紛いの電話をかけたりする予備校生が主人公だ。物語は主人公の一人称で語られるため、主人公の動機などは読み取れるようになっている。しかし、それは読者である我々の話であって、意味が分からない電話をかけられた人たちは、一抹の不安を抱くだろう。
 明日も続くと思っていた日常に、ある日意味も分からず亀裂が走る。修復しようと手を施しても、亀裂はさらに広がり、深みを増していき、やがて日常は崩壊する。そう起きることではないかもしれないが、起こりえないと断言できないこの恐怖。「イニシェリン島の精霊」には、そんな恐怖が漂っている。

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。更新したり、しなかったりを繰り返すこのブログも、何だかんだで三年目に突入しました。毎年言ってますが、今年は一か月、乃至は三か月に一回くらい更新しようと思っています。出来たらいいな。
 というわけで、2023年最初の一発は、マーティン・マクドナー監督の「イニシェリン島の精霊」です。「スリー・ビルボード」から五年、待ち遠しかった新作ですが、期待以上の内容で大満足でした。

 1923年、アイルランドの西海岸沖にあるイニシェリン島。島民全員が顔なじみである小さなこの島で、酪農家のパードリック(コリン・ファレル)は妹と暮らし、牛や馬の世話をして牛乳を運び、馴染みのパブで友人達と黒ビールを飲み交わす日常に満足していた。そんなある日、親友であったコルム(ブレンダン・グリーソン)から絶縁を言い渡される。フィドル(クラシックとは奏法が異なるアイルランドのバイオリン)奏者で音楽家のコルムは、自身もモーツァルトのような後世に残る作品を生涯の内に作るため、つまらない長話ばかりするコルムとは、付き合いたくないと言うのだ。
 突然の絶好宣言に当惑するパードリック。何とか元の関係に戻してもらおうとするも、それすらも煩わしいコルムは「今度俺に話しかけたら、俺の指を切って、お前にくれてやる。指が無くなるまでな」という最後通告を出す。途方に暮れるものの、それでもコルムへの執着を断つことができないパードリック、そんな二人が迎える結末は…。

 舞台のモデルであるアイルランドのイニシュモア島で撮影された本作。緑はあるものの、樹木は無く、石垣や断崖が目立つこの島
は美しくもどこか冷酷で、その風景は作中の緊張感と不穏な雰囲気を高める舞台装置として、見事に機能していました。パードリックを演じるコリン・ファレルの演技も素晴らしかったです。「絶縁を言い渡されても、しょうがないんじゃないか?」と思ってしまうほど凡庸で、中身が薄い中年男性を、その哀愁が目に見えるかのように演じ切っていました。
 乱暴な言い方をすると、「小さい島で起こるおっさん二人の喧嘩」について話ですが、寓意を含むセリフとショット、ブラックな笑いで緩急をつけるものの、緊張感溢れる演出によって、114分の上映時間中一度も退屈することなく、鑑賞することができました。

 アイルランド本土で行われている内戦を背景に描かれるパードリックとコルムの諍いは、様々なニュアンスで読み取れますが、僕個人の目からは「内面が乏しい人間の悲劇」のように見えました。
 パードリックは、コルムのように打ち込めるものが無く、妹の趣味である読書にも興味がない。ただ動物と生き、周囲の人間とパブで飲むという現実しかなかった。絶縁を言い渡されても、パブに行けばコルムが居て、他の客と楽しくセッションを披露している。バツが悪そうに、パブから出ても、特にすることが無い。周りの人も、パードリックを「良い人」と慰めるが、それ以上の言葉を出してくれない。コルムの絶縁宣言をきっかけに、日常の崩壊だけでなく、周囲からの評価も知ってしまったパードリック。
 しかし、彼がこの現実から逃げ出せるような、イデアは存在しない。死ぬまでこの狭い島で、生きていかなければならないのだ。厳しい現実に報復すかのように、コルムを煩わせようとするパードリック。二人の争いは次第に狂気に包まれ、遂にコルムはある行動に出てしまう…。

 救いも、回答も、ハッピーエンドもない映画ですが、多様な見方ができる芳醇な作品なので、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

キッズ・オールライト~今までも、これからも~

 ジュブナイルが好きだ。瑞々しい少年少女の物語は、自分が見落としていた世界の広さを再認識させ、大人になり鈍感になった神経に、人生の痛みを思い出させてくれる。そして、その痛みに向き合い、克服することが、如何に偉大で素晴らしいことかを、改めさせてくれる。「さよならだけが人生だ」ということにすっかり馴れてしまった大人達、そしてこれから幾つもの「さよなら」を迎えていく子供達に、「大丈夫」と言い放ってくれる映画、それが「雨を告げる漂流団地」だ。

 「死んだと思ったらまだ生きてた」でお馴染みのこのブログ、半年ぶりの更新です。前回の更新からも引き続き残業続きで、それに加えて今更自動車教習所に通い始めたもんで…。しかし、何とか教習所は卒業できたので、またぼとぼち書いていこうと思います。今年は個人的には豊作なので、公開が終わってしまったものについても、書ければなと。(「The Batman」とか「Nope」とか…)
 というわけで、今回ご紹介するのは、スタジオコロリド制作の長編アニメ映画「雨を告げる漂流団地」。ずとまよ(ずっと真夜中でいいのに)が自身のライブ終わりに、この映画のテーマソングを担当すると発表した時、涙目になるほど楽しみにしていた作品です。監督は傑作ジュブナイルペンギン・ハイウェイ」の石田祐康さん。子供視点の場面描写やキャラの演出がピカイチの前作でしたが、今回も非常に瑞々しく、愛おしい仕上がりの作品になっております。

 小学校最後の夏休み、熊谷舩祐は友達と取り壊しが決まった鴨の宮団地にやってきた。「お化け団地」と呼ばれるこの場所で、出ると噂のお化けを捕まえ、自由研究の対象にするというのだ。渋々付き合う舩祐は、かつて住んでいた団地のその一室で、幼馴染の兎内夏芽と出くわす。
 その部屋は、舩祐と夏芽、そして亡くなった舩祐の祖父、❝やすじい❞の三人が住んでいたのだ。夏芽が部屋に来ていたこと、そして彼女がやすじいのカメラを持っていたことをきっかけに、些細な諍いが起こる。その結果、夏芽が団地の屋上から落ちてしまうと、突然団地は舩祐達を乗せたまま、どこかの大海に漂流してしまう。あまりにも唐突な事態を夢だと捉える夏芽達だったが、いくらたっても覚める気配がしない。舩祐は友達と団地で出会った少年、❝のっぽ❞と協力して、家へ帰ろうとするが…。

 何といっても、舩祐と夏芽、そして彼らの友達の表情と動きがとても良いです。突然の漂流に戸惑いつつも、次第に事態に慣れていき、皆で海水浴をしたり、非常食と駄菓子(ブタメンっていうのがまた…)で作った料理で食卓を囲むシークエンスは、観ていてとても心地良かったです。とにかく美麗な画とド派手なアクションが持て囃される昨今ですが、そんなものよりも丁寧な作画と巧みな演出が大事、ということを痛感しました。
 画面の中で笑い、泣く彼らの感情を聞かせてくれる声優陣も素晴らしい。皆の中心となって、奮闘する舩祐役の田村睦心さん、そんな舩祐が気になる正統ツンデレサブヒロインの令依菜役の水瀬いのりさん、何より航祐と夏芽の友人、太志役の小林由美子さんのベテランっぷりに感無量でした…。最近だと、「地球外少年少女」での演技も良かったし、何より「クレヨンしんちゃん」ですからね…。もう快活な少年といえば小林さんですね、個人的には。

 不思議な場所で過ごす夏の一時という朗らかな一面もあるこの作品ですが、そこにはしっかりとした痛みが描かれています。食料の確保や漂流団地からの脱出を試みる少年達は、その過程で肉体的な傷を負い、不安から仲間内での衝突や自身を苛むことで、精神的にも傷ついていきます。そして、話が進むにつれて、物語は夏芽が負った傷に触れていきます。
 喧嘩が絶えなかった両親が離婚し、自分が甘えられる場所を失ってしまった夏芽にとって、引っ越し先で出会ったやすじいとその団地は、本音の自分をさらけ出せるかけがえのない居場所でした。しかし、やすじいのお見舞いへ向かう途中、舩祐が零してしまった一言で、やすじいが住む団地は所詮は他人の家ということを突き付けられてしまいます。そして、やすじいが亡くなり、団地の取り壊しが決まったことで、またしても居場所を失くした夏芽は、物語の終盤、沈みゆく団地と自身を共にしようとします。「これから先に、自分の居場所なんてない」という夏芽に、彼女を傷つけてしまった航祐は吹き荒れる嵐の中、手を差し伸べます。過ぎ去ってしまった過去ではなく、未来を共に生きるために。そして、航祐をサポートして、夏芽と団地の救助に奮闘する仲間たち。嵐に身を打ち付けられ、傷つく彼らの下に駆けつけたのは…。

 「ペンギン・ハイウェイ」で、死別という喪失を受け入れる過程を描いた石田監督、本作ではその喪失を起点として、物語が始まります。失ってしまった過去を、思い出として現実に昇華させる過程を、幻想的な場面でコミカルに痛切に描く本作。好みを問わず、多くの人に観てほしいので、良ければ是非にご覧ください。

笑おう、気が滅入るほどの現実を!

 また年が超えようとしている、沢山の問題が根本的解決をなされないまま。コロナで浮き彫りになった医療崩壊、広がり続けるポピュリズム、次々と醜態を見せる政治家及びその汚職事件…。世界に目を向けても、温暖化や経済格差、国家間の対立など将来への不安を感じずにはいられないニュースが多数見聞きされる。といっても、世間の多くは有名人のゴシップニュースを追っかけ、最新スマホ等の流行品のチェック、そして自身のSNSで、如何にいいねを貰うかを模索することに必死だ。
 このままでいいのだろうか。悪いニュースは見て見ぬふり、もしくは自分の都合の良いように解釈して放っておいて、構わないのだろうか。そんな世界を高らかに嘲笑しつつ、今そこにある危機に目を向ける勇気を与えてくれる映画、「Don't look up」。個人的今年ベストの一本です。

 「仕事とブログの両立ができている人、及びライター業の人ってホント凄いなー」ということを痛感する一年でした。まぁヒッチコック風に言えば「たかがブログじゃないか」なので、そこまで身構えず、自分が楽しむことを忘れずに、今後も更新できればと思います。(来年は二か月に一回を目標に…)
 ということで、久々の更新&大晦日にご紹介するのは、ネットフリックスで制作された「Don't look up」です。昨日で都内の劇場上映が終了だったので、シネ・リーブル池袋へ駆けつけましたが、観れて良かった…。やっぱりコメディ映画を他人と一緒に笑って観るのは、気持ちがいいものですね。話が進むにつれて、周りの笑顔は引き攣っていきましたが。

 ミシガン州立大学の大学院生ケイト(ジェニファー・ローレンス)はある時、巨大な彗星を発見する。教授であるミンディ博士(レオナルド・ディカプリオ)と研究室メンバーと共に発見を祝っていたが、博士が彗星の軌道を計算すると、恐ろしいことが発覚した。直径5~10kmのこの彗星が凡そ半年後に、地球に衝突するというのだ。すぐさまNASAに連絡し、惑星防衛調整局(実在します)の長官、オグルソープ(ロブ・モーガン)と共にアメリカ大統領のオーリアン(メリル・ストリープ)に危険を訴えるが、不適切人事問題への対応と中間選挙のことで頭が一杯の大統領は真面目に取り合ってくれなかった。隕石衝突は極秘情報として、公表を禁止されたミンディ博士達は、世論を味方につけるため、ニュース番組で事実の公表を試みる。しかし、事態はますます悪化して…。

 今やすっかりイケメンという称号を捨て去ったディカプリオ。「キャッチー・ミー・イフ・ユーキャン」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」で演じた❝弱々しく、情けない❞というタイプの役が一番ハマってるんじゃないかと思っていたのですが、今回の天文学の教授役で、確信しました。理系大学の講義室真ん前に座る学生から借りてきたような服装で、要領を得ない喋り方をするミンディ博士は、理系大学出身の自分が懐かしさを覚えるようなリアリティがありました。
 その特徴的キャラとある種の愛嬌が好感を抱かれ、TVのスターに仕立て上げられていく博士と対象的に、問題をストレートに必死に告発するケイトは心理的異常者と見なされ、ネットミームにされてしまう。この描写がマスメディアとそれを受けるネット民の悪いところを端的に表していて、見事でした。パニックムービーには付き物の会議シーンも、見せ方は違いますが「シン・ゴジラ」のように、退屈させないスピーディでテンポある編集をしています。株取引を題材にした社会派映画でも、優れたエンターテイメントとして提供してくれるアダム・マッケイの手腕、今回も冴えています。HBOで制作を務める「パラサイト 半地下の家族」のアメリカ版リメイクも非常に楽しみです。

 様々な世の悪いところを風刺するこの映画ですが、糾弾する問題は一つ、❝知ろうとしないこと❞です。ニュース出演の甲斐あって、「核爆弾打ち上げによる彗星軌道を逸らす」作戦が実施されようとしますが、彗星に豊富なレアメタルが含まれていることがわかると、科学的査読がなされていない「彗星の破壊及びレアメタルの採取」という企業主導の作戦に取って代わられてしまいます。しかし、世の人々はそんなことなど露知らず、普段通りの日常を送っています。ケイトが幾ら危険を叫ぼうと、目先の利益に捕らわれた輩と陰謀論者によって、社会的立場を奪われてしまいます。ミンディ博士もスターに祭り上げられたことによる快楽によって、企業と政府の作戦に目を閉じてしまう…その科学的正当性が無いことを知りながら。
 情報化社会と謳われて数十年、今の世の中には真偽入り混じった情報が洪水のように溢れています。社会学の学位もない一個人が言うのもおこがましいですが、やはり大事なのは「一つの情報を多角的に見て、感情に流されず吟味する」ことが大切なのだと思います。そして、情報を多角的にみるためには、まず❝知ろうとする❞ことから始めなければなりません。「俺たちニュースキャスター」というまさにニュースを題材にした映画から始まり、「マネーショート 華麗なる大逆転」、「バイス」という実在の題材から❝知ろうとしない❞ことへの警鐘を鳴らしてきたアダム・マッケイの叫びをディカプリオが代弁するシーンには、心を打たれました。

 この映画のラストは是非皆さんの目でご覧になってください。何かと暗いニュースが多い昨今ですが、暗い気分は笑い飛ばし、2022年は上を向いて迎えていただければ、幸いです。では、よいお年を。
 

世界の車窓から~地獄列車編~

 映画監督のマイク・リーはこんなことを言ったそうだ。「観客は映画を観ながら旅に出るんだ。ただ、ある時点が来ると映画は『さあ、きみは旅に出た。わたしたちはここに残るが、きみはそのまま先へ行ってくれ』と告げる」と。映画は所詮娯楽だ。一、二時間の現実逃避だ。しかし、単なる逃避にしてはあまりにも豊潤で、ただ生きてるだけでは学びえない沢山のものを教えてくれる。
 外出の自粛を求められ、娯楽施設が休業を強いられる今だからこそ、映画を通して旅に出よう。凍てつく絶望の中を怒涛の展開で突っ走る映画、「スノーピアサー」に乗って…。

 前回のブログから半年以上が経過しているという体たらく。誰にも迷惑をかけてはいないでしょうが、申し訳ありません。今年度は、もっとペースを上げて書きたいと思っています(今のところね)。
 しかし、半年経っても未だにコロナ関連の問題が少しも良くなっていないことには驚きました。しかも、去年と同じくGWはどこもかしこも自粛を求められる始末。ジョージ・オーウェル伊藤計劃も日本がこんなディストピアになるとは夢にも思わなかったでしょう。文化・芸術が蔑ろにされる昨今ですが、可能な限り鑑賞や関連商品の購入によって微力ながらも支援したい所存であります。
 というわけで、家にいながらも列車旅行ができる一石二鳥映画、ポン・ジュノ監督の「スノーピアサー」を観ました。「パラサイトー半地下の家族ー」でのアカデミー賞受賞が記憶に新しいですが、本作もそれに劣らない傑作です。

 2014年、人類は地球温暖化の解決策として、「CW-7」と呼ばれる冷却薬品の散布を決行した。しかし、過剰な散布だったせいか、地球の温度は急激に低下し、全ての生物を凍死させるほどの氷河期を巻き起こしてしまう。そんな人類最後の箱舟はウィルフォード産業が開発した永久機関エンジン搭載の列車、「スノーピアサー」だった。列車は先頭車両から階級順に乗員が決まっており、最後尾の乗員は劣悪な生活とウィルフォード社からの搾取に苦しんでいた。
 最後尾の乗員、カーティス(クリス・エヴァンス)は列車内の不平等を覆すため、先頭車両にあるエンジンの占拠を計画していた。支給される粗悪なプロテインバーに紛れていた赤い紙をもとに、彼と仲間たちはスノーピアサーのセキュリティを設計したナムグン・ミンス(ソン・ガンホ)を拘束室から解放する。車両ごとにロックされている扉を彼に開けてもらい、先頭車両を目指すのだ。
 最後尾の中で育ち、彼を慕うエドガー(ジェイミー・ベル)、先頭車両に連れていかれた息子を取り返そうとするターニャ(オクタヴィア・スペンサー)、そして最後尾の長ともいえる老人、ギリアム(ジョン・ハート)他多数の仲間を連れて、カーティスはついに先頭車両へ反旗を翻した。しかし、過酷な道程を経て彼を待っていたのは、スノーピアサーの残酷な真実だった…。

 「パラサイト~」の前半、貧乏一家全員が社長の家に寄生するに至るシーンもそうですが、目的に至るプロセスの見せ方が本当に上手いです。別車両に突入する場面、強硬突破用にドラム缶を繋ぎ合わす中、予想外にも兵士が点呼を取りに来ます。長年の観察によって、兵士が持つ銃に弾が入っていないと推察するカーティス、ドラム缶を隠すために兵士に不平をぶつけ、時間を稼ぐエドガー達、次の計画に必要なナムグンが囚われている車両へのドアが徐々に開くところをその合間に見せ、四つのドアが開いたその瞬間、兵士の銃を奪い、カーティスは自分の頭に引き金を引きます。カシャッ!緊張続く場面にほんの一瞬間を置いて、突撃を決行させる流麗さは見事でした。

 列車という舞台設定を余すことなく、使っているところにも唸らされます。進行中に敵兵士と戦う場面があるのですが、大きな橋が見えてきたところで、敵全員がカウントダウンを始めます。何の説明もないまま、カウントダウンが0を迎えた瞬間、「ハッピーニューイヤー!」の歓声。同スピードで世界中を走り続ける列車という設定を説明セリフ無しで観客に再確認させるこのシーン、一本取られた気がしました。
 そう思うやいなや長いトンネルが見えてくると、懐から暗視スコープを取り出す敵集団。列車の電灯が消えていき、後ろに引き返すよう叫ぶカーティスにかぶさるように場面は暗闇になる。確実にジワジワと殺されていく仲間たち、逆転は不可能に思えるシーンですが、これも巧みな伏線回収で、好転させていきます。ここは是非観てほしいので、詳細は省きますが、どこぞの国の聖火リレーよるも熱いシーンでした。

 「私の映画の底にあるのは不安なんです」、「パラサイト~」公開時のインタビューでポン・ジュノはこう答えたそうですが、その言葉通りこの映画の終盤は現実に生きる観客に不安感をもたらします。それは行動を起こしても、社会は変えることはできないということ。
 自らの行動さえも、何者かの掌で踊らされているだけで、そういうシステムに自分は既に組み込まれているという恐怖。映画の終盤、スノーピアサーの秘密を知ったカーティス同様、観客たちにも途方もない絶望が襲ってきます。
 しかし、それでもカーティスは未来に手を伸ばします。このシステムを覆せないと思っても、それを否定し続けます。「殺人の追憶」のような苦々しいエンディングを迎えると思いましたが、この映画ラストシーンでは、ポン・ジュノは微かな希望を提示したように見えました。

 『わたしたちはここに残るが、きみはそのまま先へ行ってくれ』、様々な不安が拭えないままGWを迎えますが、皆様も映画を通じて旅に出てはいかがでしょうか。その旅が素晴らしいものになること、そして皆様が無事にコロナ渦を乗り切れることを切に願います。ご武運を。

人の希望は全てSF

 人が生きていく上では、大小問わず多くの問題や悩みは付きものだ。周りの人間関係や自身の経済状況の苦労は頭から離れないし、ふと遠くを見渡せば、災害・紛争が絶えず、温暖化・食糧難は未だ解決されていない。
 個人を含め、世界の未来が明るいものではないのなら、決して高望みはせず、現状維持に徹するべきでは?事態を好転させる道は選ばず、現状のまま朽ちていく方がいいのでは?
 そんな個人的な悩みから地球サイズの問題に立ち向かう勇気と、これからの未来を信じる力を与えてくれる映画、それが「インターステラー」。「それでも、俺は明日が欲しい」という方、必見です。

 「1ヶ月に一回は更新するぞ!」という気概は、何処へ行ったんだか。お見苦しい言い訳ですが、引っ越し・新生活への定着・職場でのドタバタ等で、中々更新出来ませんでした。何より前述のドタバタやら新型コロナ関連のニュース(映画館・クリエーターへの影響や政府の無能さ)に辟易して、作品に触れるモチベが下がったりしてました。しかし、生活と仕事が落ち着き始め、「ブログ書くぞ!」と思わせてくれる映画も観れたので、また書き始めようと思い至った次第です。
 ということで、「インターステラー」です。クリストファー・ノーランの新作「TENET」の公開間近、「監督の過去作品をIMAXで観せるから、新作もIMAXで!」的なキャンペーンに乗っかって、初めてのIMAXで観賞しました。特撮映像もさることながら、脚本の素晴らしさに大満足。エンディングは主演のマシュー・マコノヒーばりに号泣でした。

 遠い未来、人類は地球の砂漠化と疫病による食糧難に苦しんでいた。農夫を営むクーパーは元NASAの飛行士兼エンジニア。人類が科学への期待を失い、その日の食糧の維持に専念する世の中を憂いながらも、娘のマーフィーと共に科学の進歩が現状を打開することを信じていた。
 そんなある日、突如マーフィーの部屋に重力が発生する。その重力からある信号を捉え、解析したところ、復活したNASAの秘密基地の座標を示していた。トップを務めるブラウン教授曰く、クーパーは五次元にいる何者かに選ばれ、導かれたのだという。そこでは、地球を発ち、人類を新たな星へ移住させる、「ラザロ計画」が進められていた。そして調査の結果、土星付近に発生したワームホールの先に人類が生活を営める可能性をもった惑星が、三つあることが判明した。
 クーパーは人類、そして娘の未来の為、計画に参加し、惑星調査へ向かうロケットに乗り込む。人類滅亡のタイムリミットが迫る中、クーパーは新たな移住先を見つけ、帰還することができるのか…。

 まず凄かったのが、轟音と静寂を使い分けた演出。ロケットが成層圏を抜ける際は、激しい噴射音と機体が揺れる音で臨場感を掻き立てられ、宇宙に飛び出した瞬間、それまでの轟音をぴたりと止めることで、実際に目の前の宇宙に放り込まれたような感覚を与えられました。無音による宇宙の広大さ、恐怖は「2001年宇宙の旅」にもありますが、惑星から宇宙へ飛び出すシーンはあちらには無いので、この演出は「インターステラー」ならではの見所だと思います。
 それでも、無音の演出や宇宙での特撮シーンは、やっぱり「2001年」を参考にしています(音楽も「ツラトゥストラはかく語りき」ぽくなかった?)。噴射の轟音→宇宙の無音は、他の映画で既にやってるかもしれないけど、この迫力は簡単に出せるものじゃないでしょう。再見しようにも、あの音が出せないとなると、観るのも躊躇ってしまいますね。

 登場人物には、あまり魅かれませんでしたが(キャラが立ってない訳ではないです)、元海兵隊ロボットのTARS・CASEには激萌えでした。長方形の体に、ディスプレイが一枚備え付けられているだけのデザインなのに、「C-3PO」よりも口達者で、[R2-D2」以上の愛嬌を持っています。正直度が90%と設定され、「100%の正直は、時に人を傷つける」みたいなセリフを言うので、てっきり「HAL 9000」やアシモフの短編「うそつき」みたいに主人公たちを騙すのではないかと、余計な心配をしていましたが、杞憂に終わりました。走る動きといったら、たまらないので、是非一見を。

 壮大なスケールで語られるこの映画で、観客たちは人間の弱さ・愚かさを見せつけられます。予想外のトラブルやブラックホールだけでなく、人間の嘘や保身、諦念がクーパー達調査員を襲います。苦境に立たされ、絶体絶命のピンチでも、娘の為に決して諦めないクーパー、そして父の帰還を信じ、移住用宇宙ステーションの建設に必要な方程式を解き続けるマーフィー。二人の懸命な姿を交互にカットして繋いでいく終盤、そしてその二人の行動が重なった時、SFの凄さと人間の素晴らしさに、客席は嗚咽に包まれました。

 ディストピアものも好きですが、SFこそ人間賛歌に最も適したジャンルではないかと思います。科学とは、人間の進歩の賜物であるし、それをガジェットとして、人の愛・信念を描くのだから、正に人間賛歌。確かに、科学が進歩したせいで発生した問題はたくさんありますし、人がそれを悪用することは否定しません。けれど、これも言うまでも無いですが、科学によって人の生活は良くなったし、これから更に良くなる可能性は十二分にあるわけです。それを「インターステラー」教えてくれます。
 「天元突破グレンラガン」やそれの最終回のサブタイトルにもなっている、フレドリック・ブラウンの「天の光は全て星」のように、人間の可能性・未来を信じさせてくれる3時間。鑑賞の際は、カフェインの摂取を控えることをお勧めします(後半は尿意との戦いになりました)。

世界を革命する愛を

 この世界において自分ができることってなんだろう。祖国のために武器を持つこと?他人の尊厳を貶めること?少数派の人の声を圧殺すること?そんなことよりも身近にできることがある。イエスもずっと言い続けてる、あのことが。ナショナリズムが台頭しつつある世の中で、ヘイトに中指を立て、ストレートに愛を謳う映画、「ジョジョ・ラビット」。

あらすじ ジョジョ愛国心たっぷりの10歳の少年。弱いし、臆病で、靴紐も結べない彼だけど、祖国を思う気持ちとユダヤ人への敵対心は町一番!強くて気さくなママと親友のヨーキー、そして彼にしか見えないちょび髭の総統、アドルフに囲まれながら、祖国の為に奮闘中。
 そんな彼の家に、憎きユダヤ人の女の子が潜んでいた!思わぬ伏兵にびびりまくるジョジョだが、「彼女からユダヤ人の情報を聞き出せば、本物の総統に褒められるかも!」と思い立ち、彼女との交信を試みる。しかし彼女、想像していたユダヤ人とは違うようで…?

 映画を観る前は、予告にもあった訓練シーンが全体に散りばめられているのかと思ってんですけど、そのシーンは最初の10分だけでそれ以降のジョジョは、ほとんど状況に振り回される側の存在になってます。彼が国の為に行動しても、周囲の大人達は微笑むだけで、世界に対して何の変化も与えることができません。彼の行動で事件が起こるわけでもないので、普通だったら面白みの少ないシーンに見えますが、そこは彼のイマジナリーフレンド、監督自身が演じる総統との掛け合いで、ポップでコミカルなものになっています。
 それとは対照的に、彼の周りで起こる悲惨な出来事は特に派手な演出はしていません。意気揚々と戦地に向かった少年兵達の傷だらけの帰還や市街での銃撃戦、そしてあまりにも突然で悲痛な死…。ジョジョを中心とした明るいシーンの中で、それらを淡々と流すことにより、戦争の愚かさと世界の残酷さを際立たせてる演出には、息を呑まされました(一緒に見ていた観客の中には思わず「え…」と零す方もいました)。

 スカーレット・ヨハンソン演じるお母さんもよかったですが、個人的にはサム・ロックウェル扮するキャプテン・Kが一番好みでした。軍人というナチ色が強い役柄ながらも、子供を見守る優しい大人。ジョジョの家にゲシュタポが捜査に入った時やロシアに鎮圧された後の町中でも、彼を庇い、全体主義としては誤っているジョジョの行動に目をつぶるキャラクターは非常に好感が持てました(ラストの演技も素晴らしい)。

 反戦と親愛がテーマであるのは勿論、”ペンギン・ハイウェイ”のような「世界に触れる過程で成長する子供」を描いてるようにも見えるこの映画。“縞模様のパジャマの少年”や”太陽の帝国”は、子供視点で描く戦争映画という点では同じですが、これらには成長の要素はほとんどなく、戦争の悲惨さが主軸となっています(”太陽の帝国“は成長というよりは悟り)。しかし、ジョジョは戦争を体験し、死に触れ、恋を知っていく中で、二時間前の彼から成長していく。そして、最後の彼の行動は小さいながらも確かに世界に変化をもたらします。
 ヘイトを茶化し、反戦を訴え、愛に踊る映画。もっと笑えるギャグや最初10分のテンポが終わりまで続いていれば、オールタイム・ベストに入る一本だったかもしれません。

※テンポでいえば、”パラサイトー半地下の家族ー“が凄まじかったので、こちらも超お勧めです。

きっかけは勘違い

 手短にこのブログの概要について。ここでは僕が観たり、聴いたり、読んだりしたもの(映画、音楽、本etc.)について、書いていこうと思います。その目的は、僕自身が「何に触れて、どう思ったか」ということを確認し記録するためと、もう一つは僕が気に入ったものを他の方にも観たり、聴いたり、読んでもらえたらなという思いからです。このブログが、何かのきっかけになればと思います。
 というわけで、第一回目はチャップリンです。新年初笑いを求めて、“キッド”と“黄金狂時代”、“街の灯”の三本立てで観たんですけど、街の灯が凄かった。上映時間の8/9は笑ってたと思います。

あらすじ ある日、浮浪者チャーリーは道端で花を売る女性と出会う。彼女の笑顔に心惹かれ、花を一輪貰おうとお金を手渡そうとした際に、彼女が盲目であることに気付く。盲目で貧しい彼女のために、お金を工面しようと奮闘するチャーリー。しかし、チャーリーが頑張れば頑張るほど、彼女は彼がお金持ちの紳士であると誤解していく…。

 何より映画が始まった直後で、笑いました。街の公園で新しく建てられたモニュメントの披露宴、そのモニュメントを覆っていた布を下ろすと、爆睡しているチャップリンが登場。その後もテンポ良く笑いを挟みながら、物語が続いていく。盲目の女生と出会うシーンでも、しっかり笑いを入れてくるところも良かった。というか、チャップリンがいる場面でギャグが無いシーンって、最後の目が見えるようになった彼女との再会するシーン以外無いかもしれない。
 個人的にチャップリンの凄いところは、体の動きと舞台装置の使い方だと思うんです。ド派手なアクションや大がかりなセットではないけれど、その場にあるもの(役者の体と小道具)を工夫して作るおもしろさ、そこに感嘆しつつ、笑ってしまう。ボクシングのシーンとか、ホント凄いんですよ。動きだけで、あんな面白いもの撮れるんだとびっくりですよ。昔の映画だからと言ってしまえばそうだけれども、CG無し且つ無声、カメラもほとんど動かさないで、あそこまで引き込まれるのはやっぱり凄いとしか思えない。
 池波正太郎は“サーカス”は人生の「勘違い」がテーマであると言っているが、街の灯もお金持ちだと勘違いしている女性のために、チャップリンが奮闘する話だ。ある勘違いで生まれるドラマがチャップリンの基底にあるのかもしれない(独裁者に間違われた床屋然り、拾った子供の父親と勘違いされる浮浪者然り)。勘違いがきっかけに何が始まろうと、忘れてはいけないのが“笑顔”だということを、チャップリンは文字通り体を使って、教えてくれたのではないかと思う。