あるいはiで一杯の文

前日か当日に観たり・聴いたり・読んだりしたものについて書いていこうと思います。この文を読んだ方が、それらに触れたくなってもらえたら幸いです。

地獄とはイデアの不在なり

  ―そうなんだよ、あんまり有頂天になって生きてもらっては困るのだよ、世間にはおまえたちが忘れてしまったものがいっぱいあって、いつでもおまえたちの寝首をかこうとしているのだからな。―
 この映画を観ていたとき、中上健次の小説「十九歳の地図」に書かれたこの一節を思い出した。ご存じの方も多いと思うが、この小説は新聞配達の仕事をしながら、自前の地図に×印を付け、その家に脅迫紛いの電話をかけたりする予備校生が主人公だ。物語は主人公の一人称で語られるため、主人公の動機などは読み取れるようになっている。しかし、それは読者である我々の話であって、意味が分からない電話をかけられた人たちは、一抹の不安を抱くだろう。
 明日も続くと思っていた日常に、ある日意味も分からず亀裂が走る。修復しようと手を施しても、亀裂はさらに広がり、深みを増していき、やがて日常は崩壊する。そう起きることではないかもしれないが、起こりえないと断言できないこの恐怖。「イニシェリン島の精霊」には、そんな恐怖が漂っている。

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。更新したり、しなかったりを繰り返すこのブログも、何だかんだで三年目に突入しました。毎年言ってますが、今年は一か月、乃至は三か月に一回くらい更新しようと思っています。出来たらいいな。
 というわけで、2023年最初の一発は、マーティン・マクドナー監督の「イニシェリン島の精霊」です。「スリー・ビルボード」から五年、待ち遠しかった新作ですが、期待以上の内容で大満足でした。

 1923年、アイルランドの西海岸沖にあるイニシェリン島。島民全員が顔なじみである小さなこの島で、酪農家のパードリック(コリン・ファレル)は妹と暮らし、牛や馬の世話をして牛乳を運び、馴染みのパブで友人達と黒ビールを飲み交わす日常に満足していた。そんなある日、親友であったコルム(ブレンダン・グリーソン)から絶縁を言い渡される。フィドル(クラシックとは奏法が異なるアイルランドのバイオリン)奏者で音楽家のコルムは、自身もモーツァルトのような後世に残る作品を生涯の内に作るため、つまらない長話ばかりするコルムとは、付き合いたくないと言うのだ。
 突然の絶好宣言に当惑するパードリック。何とか元の関係に戻してもらおうとするも、それすらも煩わしいコルムは「今度俺に話しかけたら、俺の指を切って、お前にくれてやる。指が無くなるまでな」という最後通告を出す。途方に暮れるものの、それでもコルムへの執着を断つことができないパードリック、そんな二人が迎える結末は…。

 舞台のモデルであるアイルランドのイニシュモア島で撮影された本作。緑はあるものの、樹木は無く、石垣や断崖が目立つこの島
は美しくもどこか冷酷で、その風景は作中の緊張感と不穏な雰囲気を高める舞台装置として、見事に機能していました。パードリックを演じるコリン・ファレルの演技も素晴らしかったです。「絶縁を言い渡されても、しょうがないんじゃないか?」と思ってしまうほど凡庸で、中身が薄い中年男性を、その哀愁が目に見えるかのように演じ切っていました。
 乱暴な言い方をすると、「小さい島で起こるおっさん二人の喧嘩」について話ですが、寓意を含むセリフとショット、ブラックな笑いで緩急をつけるものの、緊張感溢れる演出によって、114分の上映時間中一度も退屈することなく、鑑賞することができました。

 アイルランド本土で行われている内戦を背景に描かれるパードリックとコルムの諍いは、様々なニュアンスで読み取れますが、僕個人の目からは「内面が乏しい人間の悲劇」のように見えました。
 パードリックは、コルムのように打ち込めるものが無く、妹の趣味である読書にも興味がない。ただ動物と生き、周囲の人間とパブで飲むという現実しかなかった。絶縁を言い渡されても、パブに行けばコルムが居て、他の客と楽しくセッションを披露している。バツが悪そうに、パブから出ても、特にすることが無い。周りの人も、パードリックを「良い人」と慰めるが、それ以上の言葉を出してくれない。コルムの絶縁宣言をきっかけに、日常の崩壊だけでなく、周囲からの評価も知ってしまったパードリック。
 しかし、彼がこの現実から逃げ出せるような、イデアは存在しない。死ぬまでこの狭い島で、生きていかなければならないのだ。厳しい現実に報復すかのように、コルムを煩わせようとするパードリック。二人の争いは次第に狂気に包まれ、遂にコルムはある行動に出てしまう…。

 救いも、回答も、ハッピーエンドもない映画ですが、多様な見方ができる芳醇な作品なので、少しでも興味を持っていただければ幸いです。